伊藤 博文(いとう ひろぶみ、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。, 明治時代に4度にわたって内閣総理大臣(初代:1885年-1888年、5代:1892年-1896年・7代:1898年、10代:1900年-1901年)を務めたことで知られる。1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、2次内閣では日清講和条約の起草にあたった。4次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁(在職1900年-1903年)となり、政党政治に道を開いた[2]。他、初代枢密院議長(在職1888年-1889年)、初代貴族院議長(在職1890年-1891年)、初代韓国統監(在職1905年-1909年)、元老などを歴任した[3][2]。, 諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。, 周防国の百姓の子として生まれる。父が長州藩の足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。吉田松陰の私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる[4][3]。1864年にロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[3]。, 明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)の岩倉使節団にも参加し、副使として米欧に渡る。この間に大久保利通の信任を得た[3]。, 1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議兼工部卿に就任した[2]。1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生した[3][2]。1882年(明治15年)にドイツやオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手[3]。, 1885年に太政官にかえて内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年に枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した[3][2]。, 1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織[2]。1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(第1次大隈内閣)を成立させた。さらに1900年(明治33年)には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた[2]。しかし1901年(明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職[3]。, 同年に起こった日英同盟論には慎重でロシアとの協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、1903年(明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った[3]。, 日露戦争開戦には慎重だったが[5]、日露戦争後の朝鮮・満州の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)には初代韓国統監に就任[3]。韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した[6]。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる[5]。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡した[2]。, 開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が評価される[2]。, 天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(のちに重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。弘化5年(1846年)に破産した父が萩へ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。萩では久保五郎左衛門の塾に通い(同門に吉田稔麿)、家が貧しかったため、12歳ごろから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった[7]。, 安政4年(1857年)2月、江戸湾警備のため相模に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と昵懇となり、その紹介で吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。, 翌安政5年(1858年)7月から10月まで松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い安政6年(1859年)6月まで長崎で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の桂小五郎(のちの木戸孝允)の従者となり、長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(のちの井上馨)と出会い、親交を結ぶ。, 松陰が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。このとき、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。このあと、桂を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、万延元年12月7日(1861年1月17日)に来原に宛てた手紙でイギリス留学を志願している。, 文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]・加藤甲次郎を暗殺する[10]など、尊王攘夷の志士として活動した[11]。筋肉質の体躯であったとされる。, 文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。しかも途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。, 9月23日のロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。, 元治元年(1864年)3月、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国した。, 6月10日に横浜上陸後長州藩へ戻り、戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。, 伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、天皇と将軍が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金を江戸幕府に要求するようになる[12]。, オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。, 11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。のちに伊藤は、このときのことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っている。, それからは目立った活躍は見られず、翌慶応元年(1865年)に藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入および交渉がおもな仕事で、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余していた。だが、慶応4年(明治元年、1868年)に外国事務総裁東久世通禧に見出され神戸事件と堺事件の解決に奔走したことが出世の足がかりとなった[13]。, 明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能なことを買われて参与、外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府のさまざまな要職を歴任する。これには木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信とともに改革を進めることを見込まれていたからであった。, 兵庫県知事時代の明治2年(1869年)1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、, 明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。のちにこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで、財政幣制調査のため芳川顕正・福地源一郎らと渡米。中央銀行について学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。, 明治4年(1871年)11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う[14][注釈 2]。明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相ビスマルクとも会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。, 大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信とともに殖産興業政策の一環として鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した[15]。, 当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵省の権限をめぐる論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保とともに帰国したが、取得に5か月もかかったことで木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。, だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とものちに和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治六年政変)。このあと木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の井上馨とともに木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。明治10年(1877年)に木戸が死去、同年に西南戦争で西郷隆盛が敗死、翌11年(1878年)に大久保も暗殺されたあとは内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう[16]。, 明治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか井上馨や大隈重信と熱海で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると、政界追放を決め工作に取りかかり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治十四年の政変)。伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制ができあがった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け、大隈案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案したときは退けたが、これは井上が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。, 明治15年(1882年)3月3日、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発した。はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。のちにウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。, 明治18年(1885年)2月、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印している[18]。, 明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。, 太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。, なお、44歳2か月での総理大臣就任は、2018年現在日本の歴代総理大臣の中でもっとも若い記録である(2番目は近衛文麿の45歳、現行憲法下では安倍晋三の52歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた公卿出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、閣僚すらなかなか出せない状態となった。, 第1次伊藤内閣では憲法発布前の下準備の機関創設に奔走、明治19年(1886年)2月には各省官制を制定し、3月には将来の官僚育成のため帝国大学(現・東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設、これを支援した。一方、井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことが問題になり、閣内分裂の危機を招いたため、明治20年(1887年)7月に外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった。同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。, またイギリス自由党議員で鉄道事業家のジャスパー・ウィルソン・ジョーンズの義理の息子である法曹のフランシス・ピゴットを憲法を含む法制顧問に迎えるなどし、のちに刊行した『秘書類纂』にも数々のピゴットの論文(和訳)を納めた[19]。なおジョーンズの娘マーベルは1896年に植民地看護協会を設立しており、ウィンストン・チャーチルは新人議員のときに同協会を支援した。 報道によると、既存の研究ではDNA配列の分析を通じ、特定の病気の発見や、人間の特性や疾患などを特定してきたが、今回の研究ではDNA配列とRNA配列を同時に分析。DNAに存在しない変異がRNAに存在していたり、その逆のケースがあることを明らかにした。 近年の研究により、韓国人のルーツはエベンキ族という民族であることが判りました。言語、文化に見られる共通点だけでなく、現代韓国人とエベンキ族のdnaの一致から証明されています。現代の韓国人は高句麗などの古代朝鮮半島王朝を建てた朝鮮民族とは全く異なる別民族でした。 Copyright 2020 BELCY All Rights Reserved. 171, Л. // АВПРИ, Ф. ソウル大学医科大学遺伝体医学研究所のソ・ジョンソン(Jeong-Sun Seo)教授は、, 「今回の論文はヨーロッパ人とは違う韓民族の遺伝体変異を体系的に整理し、ヨーロッパ人が中心だったこれまでの遺伝子研究の限界を指摘した点で意味がある」, と話した。 韓国メディアは、韓国人のゲノム分析を通じ、人種間の多様性が予想よりも大きいことが分かったとし、韓国人をはじめとするアジア人のゲノム情報を集め、アジア人に的を絞った医学研究が必要との見方を示した。(編集担当:新川悠), お読みいただきありがとうございます。 ここに長浜浩明氏の「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)と言う書籍がある。, その108,109頁から、「ATLウイルスからの検証・渡来人はゼロに近い」なる節が掲載されている。, そこでは、2009年・H21年1990年・H2年 のATLウイルスの感染者の分布状況が、次のように紹介されていた。, 日本で最初に水田稲作が始まったのは北部九州であり、それが順次東へと伝播していったのが通説である。そして稲作はATLゼロの渡来人が北部九州に上陸して稲作を始めて、縄文人と混血していったと言うのが、この業界の通説となっている、様だ。, と言う事であれば、ATLゼロの渡来人が大挙して押し寄せたと言われている九州でのATL感染率が、薄められて最小になってもよい筈ではないか。それが何故日本列島で、九州沖縄でATL感染率がもっとも高率になっているのか。, ATLウイルスの感染率がゼロの渡来人が大挙して九州に押し寄せて稲作を始め、縄文人と混血をして人口を増やしていったと言う事であれば、九州でのATL感染率が薄められて最も小さくなっていてしかるべきではなかったか。, しかし現実は、そうではなかった。九州でのATL感染率が、日本では最も高かったのである。, 簡単に言ってしまえば、「(ATL感染率がゼロの)渡来人が大挙して九州に押し寄せてはいなかった」と考えるのが真っ当な思考と言う事ではないのか。, このことを長浜浩明氏は、「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)で次のように言っている(P113~114)。, ➀ATLウイルスを持たない多くの渡来人が大陸や半島から渡来したなら、我が国で最初に水田稲作が行われた北部九州や土井ヶ浜付近からゼロになる筈である。, ②たが菜畑遺跡のある佐賀、板付遺跡のある福岡、土井ヶ浜のある山口県西部の辺りにATLキャリアが多く、佐島、隠岐の島、五島列島、長崎などは更に高い感染率になっている。, ③渡来人と縄文人との混血がキャリア減少の原因なら、渡来人が最初に上陸し、より早くから混血が進んだであろう九州や近畿などの方が、関東や中部よりキャリアが少なくなって当然である。, ④従って、➀、➁、③から北部九州へとやってきた渡来人は少数だったし、子孫も少なかったと断ぜざるを得ない。この地に渡来人が押しよせたのなら、或いは彼らが爆発的に人口増加を来たしたのなら、縄文系が保有していたとされるATLキャリアは、九州や近畿から真っ先に減少し、縄文の血が濃いと言われる北に行く程多くなる筈だからだ。, ➄では何故、関東や中部が少ないのか。この混血は渡来人と縄文人の混血によるものでなく、それは縄文時代以前に北と南からやって来た異なるDNAの人たちが、日本列島の中央部で邂逅(かいこう)し、長期に亘り混血が進んだからだ、と解釈せざるを得ないのである。, そして『はるかな旅』シリーズもATLウイルスを取り上げなかったのは、「日本人の七割五分の遺伝子が渡来系」、「北部九州に上陸した渡来人が人口爆発を起こし埋め尽くした」では、ATLキャリアが示すデータを説明できないと判断したからに違いない。, ここに「2006年度使用開始」とする扶桑社の『新しい歴史教科書[改訂版]』がある。, すでに日本列島には、縄文時代に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の水たまりを用いて小規模な栽培が行われていたが、紀元前4世紀ごろまでには、灌漑用の水路をともなう水田を用いた稲作の技術が九州北部に伝わった。稲作は西日本一帯にゆっくりと広がり、海づたいに東北地方にまで達した。, 稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(村)をつくって暮らすようになった。人々は共同で作業し、大規模な水田がつくられるようになった。稲穂のつみ取りには石包丁が用いられ、収穫して乾燥させた穂を納める高床式倉庫が建てられた。ムラでは豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭が行われた。, (1) 先ずはイネは縄文時代から栽培されている、と説明している。これは正しいことである。プラントオパールが見つかるので、縄文時代の古くから稲作は行われていたようだ。もちろん初期のコメは陸稲、おかぼであったわけであるが、次には, (2) 沢山の渡来人がやってきて稲作を伝えた、などと嘘を言っていないことである。小高い丘に住んでいた縄文人が平地に移り、協同で水田を作っていった、と書かれている。, (3) しかも稲穂のつみ取りには石包丁が用いられ、と書かれている。石包丁は縄文時代の道具であり、決して弥生時代を象徴する金属器などではない。縄文人が縄文時代の道具を使い、稲作を始めていったことを説明している。これも真っ当な表現なのである。, 他の教科書では、「大勢の渡来人がやって来て稲作を広めた」などと嘘を教えているのに対して、この扶桑社の教科書は、誠に真っ当な表現をしているのである。, 縄文末期から弥生初期にかけて、渡来人はやっては来なかったのである。先に説明したATLキャリアの分布がそのことを証明している。, altairposeidonさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog

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