今回は、4代続いた奥州藤原氏の中でも特に有名な3代目の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)について紹介しようと思います。, 藤原秀衡は、朝廷には服従せず、独立国家の様相を呈していた奥州の王者として君臨した人物。後世の人々の評価も高く、「名君」なんて呼ばれることも。, 1157年と言えば、平安京ではその前年の1156年に保元の乱が起こったばかり。保元の乱によって朝廷の権力構図が大きく塗り替えられ、朝廷内は混迷を極めました。, 保元の乱は、朝廷の権力争いに初めて公に武力が投入された事件。保元の乱により、武士が朝廷権力に大きく介入できることが周知の事実となり、平清盛が栄華を誇るきっかけとなった事件でもあります。, さらに1159年、平治の乱が起こります。朝廷内は、天皇・上皇・貴族・武士による複雑な権力闘争が繰り広げられていたのです。, そんな複雑な権力闘争の中、平安京の有力者たちは、藤原秀衡氏の強大な財力と武力の存在をはっきりと認識しており、官位などを餌に藤原秀衡に接近しようと試みます。, しかし、藤原秀衡は平安京のどの勢力にも与することなく、独立した勢力として君臨し続けます。これは先代から続く奥州藤原氏の外交指針でもありました。, 朝廷は、奥州藤原氏の財力・武力を認めた一方、蝦夷の血の混じった奥州藤原氏のことを北方の蛮夷などと言って侮蔑していました。, 奥州藤原氏が朝廷のどの勢力にも組みしなかった理由には、「俺らのことを馬鹿にする朝廷なんかと関わりたくないわ!!」という想いもあったのでは?なんて言われています。, しかし、そんな平安京と藤原秀衡の関係も平清盛が朝廷内に台頭することで、少しずつ変わり始めることになります。, 平清盛は、1167年に朝廷の最高官位である太政大臣にまで昇進します。それまで貴族から蔑まされていた武士の身分としては前代未聞の昇進であり、武門の平家はいよいよ朝廷を本格的に支配しようとしていました。, 1170年、藤原秀衡は朝廷から鎮守府将軍という官位を授けられました。これまでの奥州藤原氏は強大な財力・武力を背景に、朝廷に取り込まれることを頑なに拒んできました。だから、これまでも朝廷からの官位などを拒んできたのです。しかし、同じく強大な財力と武力を持つ平清盛の登場により藤原秀衡も朝廷との外交方針を軟化します。, 1174年、出家を拒み、親戚を頼って奥州にやってきた源義経を受け入れます。源義経は、清和源氏として皇族の血を引く貴種。藤原秀衡は、源義経の源氏の血を利用し、奥州の権威をより一層高めようと考えました。, 藤原秀衡は源氏と平氏という武士勢力の台頭を受け、それまでの「朝廷断固拒否!」方針を軟化し、両者の間で柔軟な関係を築こうとしたわけです。とは言っても、両者との間に深い関係を持つことは決してなく、あくまで奥州の独自勢力として君臨し続けました。, 平氏と源氏の台頭のみならず、日本はさらに混沌とした時代へと突入します。源平合戦の始まりです。, 源平合戦が始まったことで、源氏と平氏の藤原秀衡の懐柔策もますます露骨になり、藤原秀衡もそれを最大限利用しようと考えます。, 1181年、藤原秀衡は陸奥守に任じられます。陸奥守は陸奥国の代表者ですから、朝廷が陸奥国は藤原秀衡が支配していると公式に認めたことになります。(これまでは、朝廷ガン無視で独自勢力として君臨していました), これは、各地で起こる源氏の反乱を抑えるために平家側が考えた苦肉の策の1つです。「奥州藤原氏の奥州支配を公式に認めるから、その代わりに平家に協力して源氏に圧力かけてくれない?」という算段。しかし、藤原秀衡は陸奥守という役職だけをもらい、平家の言うとおりに動くことはせず、源平合戦にも「我関せず」で静観を決め込んでいました。, 藤原秀衡は源平合戦という動乱を利用し、ほとんど何もしないまま奥州藤原氏の奥州支配を朝廷に公式に認めさせたことになります。ほんと、藤原秀衡は賢い。, ここまでの藤原秀衡の対応は完璧。鎌倉を拠点とする源頼朝とも、持ちつ持たれつの関係を維持します。, ところが、ここまで完璧だった藤原秀衡の外交政策も、源義経によって大きな転換を迫られます。, 当時、源義経は藤原秀衡の下に居ましたが、兄の源頼朝を助けるため富士川へ馳せ参じることを藤原秀衡に願い出ます。, 最終的には、源義経の強い気持ちに負け、藤原秀衡は源義経が頼朝の下へ向かうことを認めてしまいます。そして1185年、壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡。源平合戦は源氏の勝利に終わります。, 戦いが終わると、藤原秀衡の予想通り、源義経と源頼朝の間に軋轢が生じます。理由は主に以下の2つでした。, 源義経は、源氏の本拠地である鎌倉から追放され各地を転々と彷徨い続けます。そして最終的に義経が頼ったところが、故郷である藤原秀衡のいる奥州でした。奥州に入ったのは1187年の話です。, 「秀衡が朝廷に送る貢物。この頼朝が間に入り仲介いたしましょうぞ(超訳)」(奥州藤原氏は朝廷に定期的に貢物を送り続けることで、朝廷に奥州藤原氏の奥州の自治権を黙認させていました。要は金の力で丸め込んでいたわけです), これは、藤原秀衡と朝廷との直接の関係を経ち、頼朝がその間に入ることで秀衡を牽制しようとする意図があります。, しかも、藤原秀衡も源平合戦に勝利し強大な力を持つようになった頼朝の提案を無下にすることはできません。藤原秀衡は、しぶしぶ頼朝に貢物を送りました。, さらに頼朝は、「焼けた東大寺の大仏作り直すから、砂金三万両よろしくな!」と秀衡にとんでもない重税を課そうともします。流石にこれは秀衡が丁重に断りを入れ、実現しませんでした。, 平家を滅ぼした頼朝にとって、唯一邪魔な勢力は奥州藤原氏のみ。その頼朝の魔の手がいよいよ奥州にも迫ろうとしていたのです。, しかし、頼朝も秀衡の才知と奥州の財力・武力を恐れており、露骨な行動まではできませんでした。頼朝の牽制も上述したような微妙な嫌がらせに終わっています。, そんな頼朝の圧力が決定的になった1186年の翌年の1187年、義経が奥州に舞い戻ってきました。, 藤原秀衡にとって、源頼朝と敵対する義経を受け入れることは、政治的に非常に重要な決断でした。, 何故ならば、「源義経を受け入れる」=「源頼朝に対して明確な敵対関係を意思表示する」という意味なので、義経を奥州に迎えた時点で藤原秀衡と源頼朝の対立が決定的なものとなるのです。1174年に義経を快く向かい入れたのと事情は大きく変わっていました。, そんな事情を理解していた藤原秀衡は「義経を受け入れても受け入れなくてももはや頼朝との衝突は避けられない・・・」と考え、あえて義経を受け入れて頼朝に対して敵対関係を明確にしたのです。, 源頼朝は法皇や貴族らにも圧力を掛けており、頼朝を快く思わない有力者も数多く存在していました。そのようなアンチ頼朝派の人々は、義経に同情の気持ちを持つ者も多く、義経を受け入れることでそれらの人々の協力も得られると秀衡は考えました。特に義経を親しい後白河法皇の存在は秀衡にとってとても大きい存在だったはずです。, これは、今までの奥州藤原氏の外交方針を大きく変えた藤原秀衡の英断であり、当時の義経を取り巻く情勢を冷静に分析した結果でもありました。, ところが、こんな超重要な決断をした直後、藤原秀衡は亡くなってしまいます。義経を受け入れたのと同じ1187年でした。, 秀衡には2人の息子がいました。泰衡と国衡です。藤原秀衡は、自分が亡き後、後継者争いにより息子同士が争うことを強く恐れました。後継者争いの隙を狙われれば奥州はあっという間に源頼朝の手に落ちかねないからです。, 藤原秀衡は死ぬ間際、2人の息子に「息子たちは皆協力し、源義経を主君として頼朝に対抗するように」と誓約書を息子たちに書かせます。さらに巧みな縁組を行って泰衡と国衡を親子関係にしてしまい、対立関係が起こらないよう配慮します。, 後三年の役のように清原氏の内紛に源義家が介入し、事態をメチャクチャにした事例もありますので、秀衡の不安は決して杞憂ではなかったわけです。, 父秀衡の緻密な配慮もあって、泰衡と国衡の間に軋轢はなかったものの、叡智溢れる秀衡の死は源頼朝にとって奥州制圧の絶好の機会となります。運は頼朝に味方したのです。, 源頼朝は、後白河法皇に圧力を掛け「義経追討」の命令を出させます。そしてそれを利用し泰衡を脅しました。, 「法皇から義経追討の命令が出てるし奥州に攻め行ってもいいんだけど、あんま事を荒立てたくないじゃん?泰衡の方で、義経を始末してくれたら、事を穏便に済ませてあげても良いけど?(奥州を攻めないとは言ってない)」, 泰衡は父秀衡の意思を受け継ぎ、頼朝との徹底抗戦の姿勢を崩しませんが、執拗に脅しをかけてくる頼朝に次第に屈するようになってしまいます。外交スキルMAXの頼朝にとって泰衡を騙すことなど朝飯前なのでした。, 1189年、泰衡は頼朝の「義経の首を差し出せば、事を穏便に済ませてやる」という甘い言葉に屈し、義経の首を刎ね、その首を頼朝に差し出しました。兄頼朝のために源平合戦を戦った義経ですが、その最期はなんとも悲しいものでした。, しかし、頼朝の真の目的は義経を消すことだけではなく、自分に唯一抵抗しうる力を持った奥州藤原氏を潰す事です。, 源頼朝が泰衡の奥州支配をやすやすと認めるわけがありません。義経が亡くなったのと同じ1189年、源頼朝は「長い間義経を匿い続けたことは許しがたい罪は、実際に反逆を起こすこと以上に重大な罪である。だから奥州藤原氏ぶっ潰す!!!」と一気に攻勢を仕掛けます。泰衡に持ちかけた話は完璧なるはったりだったことになります。, こうして藤原泰衡軍と源頼朝軍が衝突。藤原泰衡は敗北し、4代に渡って続いた奥州平泉の栄華はここに尽きることとなるのです。, 保元・平治の乱や源平合戦など混沌とした情勢の中、藤原秀衡は奥州の平和を維持するための外交に努めました。そして秀衡は非常に頭の切れる人物で、その時その時の情勢に合わせとても的確な判断ができる男でした。, 平家勢力が台頭すれば、それまでの外交方針を曲げて平家と歩み寄る柔軟さ。平家に良い顔する一方で、平家のための具体的行動は一切せず、源義経を受け入れ源氏の力を利用しようとする狡猾さ。そして、頼朝との対立が避けられないと見るや義経を匿い、突如として源頼朝に対する敵意を明確にした勇敢さ。, 平安時代末期の動乱の中、奥州は驚くほど平和でした。それも藤原秀衡の知略があってこそだと言えます。そして秀衡の存在それ自体が、源頼朝などの抑止力になっていた面も否めません。戦いなどの目立ったイベントはありませんが、秀衡に限って言えば、目立たなかったことこそが藤原秀衡が王者たる所以であったと私は考えます。「真の王者は無駄な戦いをしない」そんな風に秀衡は考えていたんじゃないかな?と思っています。. 藤原秀衡は1157年、父基衡の家督を継ぎ奥州藤原氏の三代目となります。 1157年と言えば、平安京ではその前年の1156年に保元の乱が起こったばかり。保元の乱によって朝廷の権力構図が大きく塗り替えられ、朝廷内は混迷を極めました。 保元の乱は、朝廷の権力争いに初めて公に武力が投入された事件。保元の乱により、武士が朝廷権力に大きく介入できることが周知の事実となり、平清盛が栄華を誇るきっかけとなった事件で … 奥州藤原氏四代泰衡は、藤原氏を滅亡させたダメ男だと、『吾妻鏡』などでは描写されています。本当に泰衡は小心で、武家の棟梁の器など、なかったのでしょうか。考えてたいと思います 藤原 時衡(ふじわら の ときひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。 奥州藤原氏第4代(最後)の当主・藤原泰衡の子とされる。. 藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいる。, 奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。母は陸奥守・藤原基成の娘。異母兄の国衡は「父太郎」「他腹之嫡男」と称されたのに対し、正室を母とする泰衡は「母太郎」「当腹太郎(当腹の太郎)」と呼ばれ、嫡男として扱われた(『愚管抄』)。『玉葉』文治4年(1188年)1月9日条には秀衡の次男であるにもかかわらず、「太郎」と記述されている。秀衡正室所生の子は何人かいたか、もしくは泰衡のみだったのかは正確には不明だが、秀衡の6人の息子(男子)の中で泰衡が正室の長男だったと推測できる。, 文治3年(1187年)10月29日、秀衡の死去を受けて泰衡が家督を相続する。父秀衡は死の直前、源頼朝との対立に備え、平氏滅亡後に頼朝と対立し平泉へ逃れて秀衡に庇護されていた頼朝の弟源義経を大将軍として国務せしめよと遺言して没した。, 『玉葉』(文治4年正月9日条)によると、秀衡は国衡・泰衡兄弟の融和を説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。, 文治4年(1188年)2月と10月(あるいは11月)に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請する。『尊卑分脈』の記述によると、この年の12月に泰衡が自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。翌文治5年(1189年)1月、義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧・手光七郎が捕まるなど、再起を図っている。2月15日、泰衡は末弟の頼衡を殺害している(『尊卑分脈』)。2月22日、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。2月9日に基成・泰衡から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わず、2月、3月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を要請している。閏4月に院で泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。, ついに屈した泰衡は閏4月30日、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやった。同年6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。6月26日、泰衡は弟の忠衡を義経に同意したとして殺害している(『尊卑分脈』の記述によれば、忠衡の同母弟とされる通衡も共に殺害している)。泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。, 泰衡は鎌倉軍を迎え撃つべく総帥として国分原鞭楯[6]を本営としていたが、8月11日、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、平泉を放棄して中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れた。8月21日、平泉は炎上し華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗走し、以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。22日夕刻に頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は灰となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝や舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪っている。, 8月26日、頼朝の宿所に泰衡からの書状が投げ込まれた。『吾妻鏡』によると、以下のような旨が書かれていたという。「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、自分はまったくあずかり知らない事です。父が亡くなった後、貴命を受けて(義経を)討ち取りました。これは勲功と言うべきではないでしょうか。しかるに今、罪も無くたちまち征伐されるのは何故でしょうか。その為に累代の在所を去って山林を彷徨い、大変難儀しています。両国(陸奥と出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、自分を許してもらい御家人に加えてほしい。さもなくば死罪を免じて遠流にして頂きたい。もし御慈悲によってご返答あれば、比内郡の辺に置いてください。その是非によって、帰還して参じたいと思います。」, 頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は夷狄島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、9月3日に次郎に裏切られて殺害された。享年35[7]。, 6日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬罪した。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられた。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて近親者の手により、黒漆塗りの首桶に入れられ、父秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納められた。, 時衡は「岩手県史」の記述によれば、父泰衡と共に討たれており、妻子の存在は確認できない。, 秀安の子孫に関しては、「岩手県史」に載せられている「阿部藤原氏系譜」によれば、長男・秀宗は承久3年(1221年)に子が無く没した(享年22)。次男・良衡(1204年 - ?)は安倍頼久の娘・佐和子を正室とし、信衡(1240年 - ?、通称・藤原左司馬)を儲けた。信衡は安倍安助の娘を娶り、頼衡(1278年 - ?、通称・藤原久馬)が生まれた。頼衡は安倍安兵衛の娘・市子を正室とし、孝衡(生没年不詳)を儲けた。この孝衡の代から安倍氏(阿部氏)を称するようになったという。孝衡の子には朝衡(1335年 - ?、通称・安倍五郎)があり、その子で孝衡の孫に秀政(1358年 - ?、通称・安倍権六郎)がいたという。以下、孝晴、孝明と子孫は近世に続いたという。, つまり、「阿部藤原氏」の系譜は以下のようになる。ただし、「岩手県史」以外にこの系譜に関する記録物は発見されていない。, 泰高(康高、万寿、万寿丸)の事績に関しては、庄内の郷土史を研究している土岐田正勝氏の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公(泰衡の生母)の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授3年(1377年)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」という伝承が残っている。, 金色堂に納められた泰衡の首については、長年弟・忠衡のものと考えられ、首桶が入れられていた木箱にも「忠衡公」と記されていた。1950年(昭和25年)の開棺調査にて、死因については斬首されたということで間違いはないのだが、その首には16箇所もの切創や刺創が認められた。なかでも眉間と後頭にある直径約1.5cmの小孔が18cmの長さで頭蓋を貫通した傷跡があり、八寸(24cm)の釘を打ち付けたとする『吾妻鏡』の記述と一致することから、忠衡のものではなく泰衡のものであると確認された。他にも右側頭部に刀傷と見られる深い傷があり、頭や顔に多数の切創や刺創があった。これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の2回で切断され、釘打ちの刑に処された上で晒し首にされたと推定されている。また、鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡が確認された。保存状態は良く、顔は丸顔、豊頬で若々しく、父に似て鼻筋が通り頑丈な顔立ちであったという。血液型はB型。歯の状態は綺麗で、レントゲン検査から第三大臼歯(親知らず)の歯根が形成途中((智歯)の遠心根の尖端が石灰化未完成)。通常、歯冠が完成するのは12歳 - 16歳、萌出は17 - 21歳、歯根は18歳 - 25歳で完成するという)であることが判明し、没年齢は推定20 - 30歳代、もしくは25歳と判断されている。また、23 - 30歳、切歯の摩耗度合いから見ると30歳程度(前後)ともされた。一方、頭蓋骨は20代半ばと30代半ば両方の特徴を有するという見解も出されている。この判定から、『吾妻鏡』吉川家本に記されている25歳没説と北条本に記されている35歳没説の両方が無視できないことになり、確定はできていない。しかし、忠衡が23歳で没したとの『吾妻鏡』の記録から察するに、それ以上の年齢に達していたことは間違いないとされる。首には縫合した跡が見られ、近親者と考えられる人物により手厚く葬られていた。このような誤伝がなされていたのは、義経の「判官贔屓」の影響とされる。つまり、「父の遺言を守り悲劇の英雄・義経を支持した弟・忠衡こそ、真の4代目たるべし」という心情である。また、逆賊(謀反人)の汚名を被った泰衡が鎌倉軍が管理していた金色堂に納められる訳がないという長年受け継がれてきた思い込みからの推測も理由として挙げられる。研究者の間では謀反人である泰衡が葬られることを近親者(樋爪俊衡・季衡兄弟との推測がある)が憚ったため、首の主を「忠衡」ということにしたという憶測もある。, なお、開棺調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見された。種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 - 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽を成功させた。泰衡没から811年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、ハスの花は中尊寺の讃衡蔵に保存された。中尊寺ではこのハスを「中尊寺蓮」と称し境内の池に栽培している。, 泰衡は、『伊達次郎』と称していたということから、福島県北部の伊達地域との関わりも考えられる。伊達郡に隣接する信夫郡は奥州藤原氏と関連の深い佐藤氏が支配していた。佐藤氏は奥州藤原氏と同じ秀郷流藤原氏で、秀衡の頃の当主基治は秀衡のいとこの乙和子姫を妻にしていたとされ、また乙和子姫の娘は泰衡の弟・忠衡に嫁いだという。そのような奥州藤原氏と強固な関係を持った佐藤氏の支配地に隣接する伊達地域は、文治5年(1189年)の奥州合戦の折に泰衡が長大な防塁を築いた地域でもある。泰衡がこの地域を直接統治していたという証拠はないが、奥州藤原氏の影響力の強い地域だったことは窺える。, また、文治5年9月3日に泰衡が秋田で討たれ、首の無い遺体はその死を憐れんだ贄柵周辺の住民たちによって錦の直垂に大切に包まれて埋葬され、「錦様」と呼ばれ、その場所に里の民によって埋葬されたとされ、その埋葬地とされる場所には、泰衡の墓石を御神体として祀る錦神社が建っている。それから泰衡の後を追ってきた泰衡の妻・北の方が夫の死を知って嘆き悲しんだ末に同年9月7日に自害し亡くなった場所に夫人を憐れんだ里人が建立した西木戸神社が建つという(夫人のために五輪の塔を祀ったといわれている)。, 『平泉志』には『又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』とあり、訳せば、, 『吾妻鏡』文治5年11月8日条に泰衡幼息の行方を追っている記述があるが、その後の消息は不明。頼朝の子(のちの, 国分原は宮城野原で、鞭楯は榴ヶ岡の辺りと考えられている(仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編2(古代中世) 仙台市、2000年、201頁。), 『吾妻鏡』吉川家本では享年25、北条本では享年35とされているが、6歳で長男・時衡が生まれたとは考えられないので、享年35説のほうが有力と考えられる。但し、後述する, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=藤原泰衡&oldid=77945913.

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