身  長:176cm 小柄で華奢で小顔で・・・昔のまんま、年月が過ぎたような感じの進也さん。 代表曲 :「高校三年生」「銭形平次」等

本名は木本 龍雄(きもと たつお)。広島県広島市出身[2][3][4]。アースコーポレーション所属。身長181cm。血液型はAB型。既婚。, 広島県広島市、広島駅近くの東蟹屋町(現:東区東蟹屋町)に生まれる[5][6][7]。最初の家は三宅一生の実家の斜め前にあった[8][9]。奥田民生の実家も近所である[8][10]。父親は事業家で家は裕福だった[11][12]。ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み[13][14][15][16][17]、ジャズスクールに通って、最初はエレキギター、その後ベース、次いでドラムを勉強した[18][19][20]。当時、ロックをやりたければ、楽器を置いてあるのはジャズスクールしかなかった[18]。小学3年の時、最初にファンになったのはジェフ・ベックで[21][22][23]、「おませなガキ」でもあり、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄たちとした[14][21]。小学4年生の時に[24]、その兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成[25][26]。『月刊平凡』1974年2月号の自叙伝で「小学校に入ったばかりの頃、もうぼくはミュージシャンになりたいと思っていた。歌手ではない、ミュージシャンだ」と話している[24]。結構なワルで小さな頃は喧嘩ざんまい[27][28]。中学では縄張り争いを繰り広げ「売られた喧嘩で負けたことはいっぺんもない」と豪語した[29]。自宅前の荒神陸橋によじ登ったり[12][30][注 1]、無免で単車を乗り回しお巡りさんに何度も油を搾られた[12][30]。一緒に単車を転がした友人は、西城がデビューした翌年単車事故で死んだ[12]。高一のときには、駅のトイレで他校生15人からリンチを受け、兄貴と仲間で仕返ししたこともある[12]。 広島市立尾長小学校在学中から小学生ドラマーとして活動し[31]、GS全盛期の1968年、兄が中3、自身が中1のとき、広島市立二葉中学校の文化祭でステージ演奏をし、学内の女生徒から大人気となる[24][32][33]。ボーカルに魅力を感じるようになったのはその頃から[24]。西城は世代的にすでに既成概念としてロックを認識していただけでなく、ビートルズは勿論、ビートルズ以降に生まれた多様なジャンルのロックを現在進行形で自然に吸収した[14][34]。歌謡曲は聴いていなかった[31]。ザ・ベンチャーズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、シカゴなどの洋楽に影響を受け[4][21][31][35][36]、上京直前の1971年9月27日に行われたレッド・ツェッペリン広島チャリティーコンサートもバンド仲間と鑑賞している[21][22][35]。ツェッペリンのメンバーはライブ後の打ち上げで、西城が歌のアルバイトをやっていた広島市内のナイトクラブ「インペリアル」[注 2]に飲みに来て突然演奏した[38]。西城はそれを見て涙を流し「絶対、ワシも(ツェッペリンみたいに)なるで!」と言っていたという[38]。中学以降もバンド活動を続け、ビアガーデン等でバンド演奏のアルバイトをした[39]。米軍岩国基地や佐世保基地のライブハウスなどにも出演し[18][21]、1969年の『ウッドストック・フェスティバル』は、そこでテープを録ってもらった物を観た[21]。強い感銘を受け、それが後のスタジアムライヴにつながったと話している[31][40][41][42]。岩国基地が近辺にあったため、最新の洋楽の情報は東京より迅速であったと述べている[8][24][43][44]。こうした洋楽通ぶりがプロデビュー後、他のアイドルとは一線を画す個性となった[41][45][46][47][48]。西城が当時の歌謡曲で異彩を放ったのは、西城はハードロックに代表される70年代ロックのビートをドラムを通して学び、肉体化していて、歌謡曲という範疇の中で、ロックのビートを自然に表現できる歌手だったからである[46]。, 兄らが卒業したため中学2年のとき「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成[12][32][49]。このバンドでリードボーカルとなる[24]。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場し[49]、中国大会で優勝した[12][26][50]。山陽高等学校一年の1971年[28]、R&B喫茶「パンチ」から声がかかり[24]、店のレギュラーバンドになり[5][24]、店で歌唱していたところをスカウトされる[14][19][32][41][50][51]。誘い文句は「歌手にならないか」ではなく「バンドボーイから修行しないか」であった[52]。「パンチ」に出演していることは高校にはバレており[39]、停学寸前の最後の出演だった[39]。「パンチ」は旧天満屋八丁堀店(現・ヤマダ電機LABI広島)裏のえびす通り商店街にあり[5]、吉田拓郎が練習拠点にし[53]、就職が内定していたカワイ楽器広島店[53][注 3]の二軒隣り、パーラー高木屋の地下にあった[5][注 4]。年は大分違うが吉田のバンドと活動時期も重なっており[14][53][57][58]、吉田も西城を覚えていて『月刊明星』1975年11月号のインタビューで西城の話をしている[59][注 5]。これを切っ掛けとして後に楽曲提供を受けたのが1982年のシングル『聖・少女』[14][42][57]。本来、歌手には興味がなかったが[14]、当時、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」がヒットして、歌謡曲が変わり始めた時期と感じ、スカウトを承諾した[19]。父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対[61]。その反対を押し切り、高校一年の二学期途中の1971年10月3日、家出同然で広島から夜行列車で上京[20][24]、10月4日朝、東京駅着。芸能事務所「芸映」に所属[62]。明大中野高等学校定時制へ転校する[63]。広島では12畳の部屋に一人で住んでいたが、3畳もない三角部屋にマネージャーと二人で住んだ[24][64][65]。, 1972年3月25日、日本ビクター(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のRCAレーベルよりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。芸名は『女学生の友』の一般公募[66][67]。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」[68]。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる[48]。, 1972年11月25日に発売された「チャンスは一度」で[69]、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれるようになった[48][69][70][71]。, 1973年6月25日、5枚目のシングル「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り[48]。以降、オリコンベストテンに11年連続、計33曲を送り込む[44]。「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。絶唱型と言われる歌唱法を披露。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。, 1974年、「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露[72]。「激しい恋」がオリコン年間チャートの第8位を獲得。「傷だらけのローラ」が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優としても活動する。, 1976年の「君よ抱かれて熱くなれ」から1977年の「ボタンを外せ」までは、阿久悠の作詞、三木たかしの作曲のコンビによるヒット作品が続く。1976年の「ジャガー」、1978年の「炎」で、『東京音楽祭』国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場。1979年、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.

ご了承を 高くてかわいらしい声は健在。 予約録画もバッチリ(^_-)-☆, 新御三家と「70年代男性アイドル冬の時代」のあいざき進也さん | ー遠い風の街からー GORO Fan Blog. 普段からそう呼んでるのかな。, 何年たっても「GOROちゃん」って呼ばれるって、素敵なこと

新御三家は、男性アイドル歌手の三強として君臨し続けた。 それほど、新御三家は他を寄せ付けない圧倒的な存在であって、その厚い壁を超える男性歌手は70年代には現れなかった。 「 男性アイドル冬の時代 」と言われたそうな。 )」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。, ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年まで10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し[20][73]、その後11年連続(通算12回)開催する。「秋(静)の日本武道館」と「夏(動)のスタジアム・コンサート」は恒例となる。, 1981年4月6日、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)[注 6]。続く「セクシーガール」で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する(史上5組目)[48][注 7][注 8]。同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う[74]。, 1983年1月21日、スタッフと共に芸映を円満退社し独立[75]、有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。第1弾シングルは「ギャランドゥ」。以降、グラハム・ボネットの「Night Games」、ワム!の「Careless Whisper」、バリー・マニロウの「In Search of Love」、「It's All Behind Us Now」をカヴァーする等、それまでの歌謡曲の枠に囚われることなくロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組むようになる[70]。, 『NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場(その後1994年に10年ぶりに出場後、1995年、1997年から2001年までの計7回出場した。総出場回数は通算18回)。『日本レコード大賞』では1976年の「若き獅子たち」が歌唱賞を受賞(通算3度目)。金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」まで22曲ランクインした。『ザ・ベストテン』の放送開始はデビューから6年後だったが、通算ランクイン155回は番組史上6位、1970年代以前デビューの歌手では1位。放送開始時から数えた場合、8年連続ランクインは最多の連続年数出演である[44][76]。, 2000年、「最後の愛」を最後にビクター音楽産業系(RCA⇒RVC⇒BMGビクター)から、ポリドールへ移籍し「Bailamos」をリリースする。以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。2015年4月13日の還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』からBattle Cry Soundレーベルのリリースとなる。, 長らく独身であったが、2001年6月30日に大阪府在住の会社員の一般女性と結婚[注 9]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に二男が誕生している。, 2003年6月21日につんく♂がプロデュースした85枚目のシングル「粗大ゴミじゃねぇ」を発表した直後、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。, だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[78][79]。, 2015年4月13日、満60歳の誕生日を迎える。翌2016年2月には、「新御三家」が3人揃っての還暦祝いを機に、「還暦鼎談」を開催した[80]。, 文藝春秋・2016年12月号において、「3度目の人生」を題目に「2度の脳梗塞には感謝している」等とのメッセージを寄せている[81]。, 2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『同窓会コンサート2018 in足利』に出演。前日に63歳の誕生日を迎えた事から、ステージ上で出演者からケーキで祝福された[82]。しかし、結果的にこのコンサートが西城にとって最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区の練馬文化センターで『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)の開催時、最後方の席で西城が座っている所に総合司会の歌手協会理事・合田道人から紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピールをしたが、これが最後の公の姿となった[83]。, この日から僅か6日後の2018年4月25日、自宅の家族団欒の席で突然倒れて救急搬送で緊急入院。意識不明の状態が続く中懸命の治療が行われたが[84]、同年5月16日23時53分、急性心不全のために神奈川県横浜市内の病院で亡くなった[84][85][86]。63歳没。法名は「修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)」[87]。翌17日には、民放各局がニュース速報テロップを流し西城の訃報を伝えた。, 西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め[88]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。, 死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[89]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[90]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.

たまにはいいでしょ )」を歌唱した[370]。, 2018年5月26日に行われた西城の告別式では「ご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。ご遺族の方のお気持ちを思いますと、心が本当に痛みます。その旅立ちが安らかなものでありますよう、心よりお祈り申し上げます」という弔電がサザンオールスターズ名義で届けられた[371]。, フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル「チャンスは一度」での出演であった。1974年以降、ヒットスタジオとの関係が薄い芸映所属ながら人気・実力を評価されて準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし・森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード[注 24]、見せ場を提供した。, 1984年11月19日放送では、ワム!の「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。, 『8時だョ!全員集合』は、1972年10月2日放送回に初出演し[372]、以降番組の常連となり[373][374]、ゲスト出演は小柳ルミ子に次いで73回で2位[374][375]。歌手がコントをやり始めたのはこの番組といわれており[374]、西城も「単にゲストとしてという意識ではなく、レギュラーのような気持ちで出演させてもらった」と述べている[374]。小柳の1位は、同番組の企画が小柳の所属していた渡辺プロダクションだった関係があると見られるが、西城の2位は、鴨下信一によれば、西城の所属した芸映が最初はTBSのまだ大きくなかった社屋の狭い道を挟んだ向かいのビルの二階の一室に事務所を構えていて、当時は世の中も牧歌的。お向かいのプロダクションに素晴らしい新人が広島から入ったと、TBSの演出部員はその日のうちに知っていて「ぼくらにとってヒデキはお向かいの家の坊や」だったと述べており、TBSの関係者に早くから可愛がられたことが原因かも知れない[259]。男性最多ゲストの西城は、同番組"二大事件"とも[376]"三大事件"ともいわれる(8時だョ!全員集合の歴史#トラブル史)、「火災」と「停電」放送回のゲストでもあった[374][377][378]。1977年5月14日の「火災事件」は「探検隊コント」の途中、小道具のヘビにピストルの火花が着火し炎上したものであったが、西城もこのコントに参加し、ヘビに向けて発泡したのは西城であった[376][378]。「停電事件」があった1984年6月16日の放送回では、停電で場内真暗闇で混乱する中、タイムキーパー用の懐中電灯を渡され、いかりや長介の顔に最初に光を当て番組の進行に貢献した[376]。, 1973年から12年間、ハウス食品の「バーモントカレー」のCMに出演し"ヒデキ、感激!!"、"ヒデキ、ご機嫌!!"、"ヒデキ、満足!!

75年 [303]、これが7月のほぼ丸一ヶ月の公演で、当然リハーサル期間もあり、準備面でも"全国球場ツアー"は断念したものと見られ、この年の球場コンサートは大阪球場だけに留まった。翌1978年からは東京の後楽園球場が加わり、大阪球場と合わせ東西での球場コンサートになったが、全国の球場ツアーはその後も実施されることはなかった。「舞台の発声法を会得し、すっかりノドが強くなった」と話しており[109]、ミュージカルで得たものも大きかったと思われるが、音楽史的には"全国球場ツアー"をやった方が良かったかもしれない[注 19]。, 西城はこの時代のアイドルとしては珍しく毎年のようにライブ・アルバムを発売している[48]。, 1975年7月20日、富士山麓での野外ライヴは、広大な空き地に一からステージ設営し、バスで全国から観客を運ぶといった大イベントも成功させた[35][114][124][307][308][309]。観客3万人[310]。当時の週刊誌で「史上初、空前絶後の大イベント」と書かれており[308]、元祖夏フェスともいわれる[311]『吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』より二週間早く、ソロでの観客数万人規模の野外ライヴとしては、最も早い事例と見られる。本コンサートを皮切りに同年8月30日まで続いた『全国縦断サマー・フェスティバル』の模様とステージを離れた西城のプライベートタイムを細大もらさずフィルムに収めようと松竹と日本テレビの二つの撮影クルーが社を挙げて追いかけた[310][312][注 20]。この松竹版がドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』で[124]、1960年代にGSのバンドなどを主役とする歌謡映画がよく作られたが、このようなアイドルのひと夏のツアーを追ったドキュメンタリー映画が全国ロードショーされるのは珍しく[314]、『エルビス・オン・ステージ』をヒントに製作されたと評された[314]。日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で『西城秀樹日本縦断20歳の絶唱!』「35メートルの秀樹宙吊りの熱唱▽完全取材!北海道から沖縄まで秀樹魅力の全て▽告白!母が語る秀樹生い立ちの秘密▽秀樹オンステージ」というタイトルで放送した[312]。, 鹿児島県最南端の島・与論島の海開きに合わせ、1979年3月31日に当地の海水浴場特設ステージでコンサート[315][316][317]。島外からのファン700人を含めた観客3000人[315]。発売間もない「YOUNG MAN (Y.M.C.A.

この二つの花形職業に就く男女は、これまでに多くのゴールイン(結婚)を迎えてきたことでもよく知られていますし話... 「ニャンギラス」、「うしろゆびさされ組」と、1980年代中盤の芸能界で大ブレイクしたおニャン子クラブから生まれたアイドルユニットをご紹介してきたこのサイトですが、この二つを取り上げたらこのグループを無視するわけにはいきません。

)」は、ステージを降り、砂浜でファン全員で西城の周りを囲み一緒に歌った[315]。「ホップ・ステップ・ジャンプ」のジャケット写真はこの時撮影されたもの[118]。, 1970年代のテレビの歌番組は基本的に生放送・生演奏で[318][319]、出演歌手は番組専属のオーケストラ (フルバンド)のバック演奏で歌っていたが、当時はよりロック色の強い路線だったこともあり、レコードよりもっとハードな音を出したいと[19]、自身の音に対するこだわりをフルバンドの人たちに100%伝えるのは無理があると感じていたため[318]、早く自分のバンドを作りたいという希望があった[43][121][318]。1974年2月に日本武道館で挙行されたフェイセズの来日公演を鑑賞に行った際、その前座でジョー山中らとセッション・バンドで演奏していた芳野藤丸に声を掛け[43][208]、自身のサポートバンドを要請[43][188][250][290][320]。「藤丸BAND」を結成し以降、芳野が「SHOGUN」での活動が忙しくなった1979年まで『夜のヒットスタジオ』などのテレビの歌番組や西城のライブでバックバンドを務めた[42][43][199][208][250][321]。「藤丸BAND」という名称は(仮)の名前だった[121]。, 西城はアマチュア時代と同様、最初からロックバンドをバックに歌うことが希望であったが[318]、駆け出しの身分では自分のバンドを持ちたいとは言えず、実績もある程度のレベルにきてようやく実現できた[318]。「自身のサウンドを創るため、バンドの若い仲間とディスカッションしたい」という希望がようやく叶った[121]。歌番組のフルバンドは全てのジャンルの曲をやらないといけないため、どの曲もテンポ、リズム感が同じで自分なりの匂いを出すことができず、イメージする音と違っていた[318]。しかし当時のテレビ局のスタッフやフルバンドの人たちから「こんなバンド作られちゃ、準備にも音合わせにも時間がかかって迷惑だ」などと何度も嫌みを言われた[318]。逆に自身が実績を積み上げるとフルバンドの方がいい音を出してくれたこともあったが、新人の頃は舐められ、演奏中に居眠りする人もいたという[318]。, 1970年代前半にロックバンドが全国ネットのテレビ番組に出演することはないに等しい状況であったため[169][320]、「後の世良公則&ツイストやもんた&ブラザーズなど、ロックバンド確立の切っ掛けは、藤丸BANDや沢田研二さんの井上堯之バンドが作ったと思う」[318]「音作りなんかもボクや沢田さんが歌謡界を開拓したんじゃないかと思う」と語っている[318]。ダイアモンド☆ユカイは「西城さんは時代が違えば、ZIGGYやレッズみたいなバンドをやってたとおもうよ」、森重樹一は「ロックバンドという選択肢がない時代、プロとして歌うなら歌謡曲の歌手になるしかなかった。それで大きな成功をおさめたんだからね。今、そのすごさがわかるね」などと述べている[290]。, 新御三家の活躍は、男性歌手による歌謡曲のあり方を大きく変えた[260]。長髪で、ロックと距離感の近い楽曲を激しいアクションで歌う彼らの佇まいは、それまで歌番組のメインだったスーツ姿で直立不動の歌手たちとは全く違う様相をしていた。彼らの存在は後の日本のロックにも多大な影響をもたらした[123][179][260]。ことに80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちは、新御三家や沢田研二にテレビで触れたことを"音楽のめざめ"とする者が多く、そこから洋楽を含めたロックへと嗜好を広げていったケースが少なくない[196][46][197][199][260][322]。メインストリームに於ける国産ロックヴォーカリストたちのスタイルは、新御三家と沢田研二の4人の要素を様々なバランスで成立させているのである。ことに幼少期から目や耳にしていた彼らの歌唱やステージングのスタイルが、自然に刷り込まれている。中でも西城のヴォーカルスタイルは、大音量で演奏するバンドサウンドに埋もれずに絶叫することを強いられる立場にある後続バンド世代にとっては、ロバート・プラントやイアン・ギランよりもずっと身近な手本であった。「薔薇の鎖」に代表されるマイクスタンドを駆使した派手なアクションに魅了された少年たちは、後にその向こう側にロッド・スチュワートやスティーヴン・タイラーの姿を見つけたのである[260]。週に60本あったといわれる[71] 歌番組華やかなりし70年代から80年代前半にかけて、毎日のようにテレビに出て歌いまくった西城は[48]、"不良の音楽"だったロックを"青春歌謡"として定着させた[41][48][179][202]。自ら創始したマイクアクションに、独特のハスキーボイスでシャウトする姿は、当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えた[41][48][57][114][197][199][200][202][214][219][248][323][324][325]。女性ファンは勿論、チビッ子たちもヒデキを通じて“ロック”を無意識のうちに体感した[48]。さくらももこが『ちびまる子ちゃん』の中で西城を盛んに取り上げ、それが再評価にも繋がった[198][202]。90年代初頭にヒデキの再ブームがあり[18][194][293]、ヒデキを聴いて育った世代のロック・ミュージシャンが台頭してヒデキへのリスペクトを公表したり[48][293][326]、テレビ業界内にもヒデキを聴いて育った世代の混入率が高くなり[18]、またものまねの恰好のネタだったことから[293]、植木等、美川憲一、山本リンダと共に"復活四天王"とも呼ばれ"トレンドスター"になった[293]。現在のような"歌謡ロック"的評価はまだ浸透していなかったため『Asahi journal』では「僕がやってることは歌謡曲でもロックでもなく"西城秀樹"というジャンルなんだよ」と話し[293]、どんな曲でも絶叫型のヒデキ節にしてしまう自己完結的な高飛車な姿勢も、当時の「タカビー」という若者言葉に乗って大ウケした[293]。また『フライデー』のインタビューでは「俺には演歌が主流だった時代にいちばん新しいことをやったという誇りがある。一貫して"西城秀樹"をやり続けて、いまでも全然変わってない。もし今回のブームがなくてジリ貧になったとしても俺はずっと俺のロックをやり続けていたろうね」と話した[101]。, 宝泉薫は「はっぴいえんどからYMOへという流れを重視したい人も、内田裕也とかキャロル、矢沢永吉や横浜銀蝿こそ"本物"だ等、色々な主張はあるにせよ、現実には、西城から影響を受けたアーティストたちが"Jロック"のメインで大量に活躍中であり、西城こそ日本のロックのパブリックイメージなのではないか」と論じている[202]。西城の曲を聞いて育った次世代のロック・アーティスト達による1997年の『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS' WANNA ROCK!』は[48][46][123][196][327]、トリビュート・アルバムのハシリであったが[328]、企画を聞かされた西城は、プロデューサーの大島暁美に「何でオレ?」と聞いたら、「日本のロックの元祖だから」と言われたという[324][327]。参加したサンプラザ中野くんは「ロック感覚あふれるシャウトを日本に持ち込んだ初のシンガーだと思う」と評している[329]。ダイアモンド☆ユカイは「"西城秀樹"というジャンルには根本にロックが流れていると思います。BOØWYが出てきたとき、氷室京介さんのボーカルを、みんな最初は"ヒデキさんみたいだ"と思ったはず。ロックを日本語で表現しようと試行錯誤してきたのはキャロルやサザンオールスターズ、Mr.Childrenといった流れがあるけど、ヒデキさんが原点だったんじゃないでしょうか」などと述べている[202][236]。小室哲哉は「うち(TM NETWORK)のヴォーカルのUTSU(宇都宮隆)と、氷室さんと、あと西城秀樹さんと、3人の声が有線で流れてきた時にたまに一瞬、分かんないときがあった」と話している[262]。怒髪天の増子直純は「日本人にとって同じように血の中にあるのは演歌・歌謡曲でしょう。みんな初めて買ったレコードは西城秀樹やピンク・レディーだったはず」と話している[330]。いとうせいこうは西城のファンであることを隠しているといわれる[18]。徳光和夫は「歌謡界にR&Bを持ってきたのがアッコちゃん(和田アキ子)なら、ロックを持ってきたのは西城秀樹ではないか」と評した[254]。1973年に西城が「ちぎれた愛」で新御三家で初のオリコン週間チャート1位を獲得し、『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞したにも関わらず、『NHK紅白歌合戦』出場が翌年まで持ち越されたのは、NHKから西城のロック色の強い部分が警戒されたためといわれた[234]。, "洋楽カバーの第一者"とも評され[35]、アマチュア時代からプロデビュー以降、晩年に至るまで一貫して洋楽カバーをやってきた[46][23]。所属事務所の支社がロサンゼルスに早くからあり[21]、ロスにも頻繁に足を運び、日本でまだ発売されて無いアーティストのテープなどの提供を受けたり、スティーヴィー・ワンダーやバリー・マニロウらと交流し、積極的に洋楽カバーを行った[13][19][20][21][48][123][184][200][227]。カバーを本格的にやろうと決めた切っ掛けは、アメリカでロッド・スチュワートのライブを観た時、ロッドが「キープ・ミー・ハンギン・オン」を自分のものにして歌っているのを観て、「カバーするならあれくらいにならないとダメ」同時に「日本ではどうしてあんな素敵な遊びをしないんだろうな」と思ったことだという[19]。小林亜星は「西城さんはロックミュージシャンとしても最高の知識と腕を持っていた」[206]、「海外の歌ぐらいじゃないと満足ができない、表現がしきれない歌手」と評している。, 1970年から1980年代にかけて日本の音楽界はまだ事務所やレコード会社の力が強い時代であったが、デビュー二年目の1974年には年間二枚も洋楽カバー・アルバムを発売。西城が当時、自身が好きなように構成を組むことが出来たライブでは[13]、頭から10曲洋楽カバーを演ることも珍しくなく[21][331]、1973年~1974年の最初期のコンサート(リサイタル)では、持ち歌がまだ少ないこともあって前半が洋楽カバー、後半が持ち歌メドレーという構成で、洋楽カバーは「Try a Little Tenderness」「Dio, come ti amo」「Funky Stuff」「If You Go Away」「Just Like a Woman」「Roll Over Beethoven」「Spinning Wheel」「I Believe in Music」「Your Mama Don't Dance」「Love」「Jumpin' Jack Flash」など、ベース仕込みの選曲か、女性ファンは勿論、当時の洋楽ファンでも馴染みの薄いロックンロールやソウル、R&B、ファンク、フォーク、シャンソンなどを歌い[23][120][215][331]、後半の持ち歌メドレーでは『愛の十字架』の後、エンディングの「Que je t'aime」を歌い終えると古代ローマの遺跡のセットが崩れ、スモークの中、十字架に磔にされた西城が天に昇っていくという『ジーザス・クライスト・スーパースター』からヒントを得たと思われるロックコンサートの定番演出を行った[126][331][332]。, 1978年にバリー・マニロウの「コパカバーナ」を現地で聴いて「いいな」と思い自身でバリー・マニロウのコラボ(「腕の中へ」)を頼むなど[21][22][180]、全曲自身でカバー曲の選定も行った[21]。また「歌詞が英語のように聴こえるように」といった原曲に合う訳詞にして欲しいといった指示も出した[21]。オリジナル曲の方が儲けが出るためレコード会社はたいてい反対し、それを説き伏せるのが大変だったという[21]。「当時は僕がカバーして、そのアーティストを知るリスナーが多かったんじゃないかな?」と話している[21]。「誰のカバーであっても真似をせずに、自身のスタイルですること」を最も重要視した[21]。「日本語をロックにのっけるっていうのは、当時やったヤツがいなかった。あれで若い子たちが『あ、日本語でロックをやってもいいんだな!』と思ったんじゃないかな。プロでも音楽理論を知ったかぶりするような評論家的なヤツらがいたんだけど、そういうヤツに限って、例えばロック系ならポップスを全然聴いてなかったりしてね。本質を知らないんだよ。僕はポップスもロックも一緒だと思ってる。歌謡ロックや歌謡ポップス、歌謡ヘビーメタルがあったっていいじゃない」[21]、「当時のロックって言ってたのはロックじゃない。全部歌謡ロックだろ」[292] などと話し、歌謡曲やロックの歴史を別々に論じたがる日本の音楽ジャーナリズムに苦言を呈している[21][187]。, 1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演[333]。20分のゲスト出演だったが[334]、番組視聴率は90%を超えた[59][335][336]。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた[336]。当時の香港にもかつての日本の歌謡界と同様、歌う時に体を動かす人があまりおらず、現地の新聞に"ボディアクション""ボディランゲージ"とやたら書かれた[334]。西城からの影響で現地の歌手がそれをみんな真似し始めた[334]。9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催[48][140][333]。現地のプロモーターから「香港の人は評価がストレートだから一回目でブーイングが来たら二度と香港では出来ないよ」と言われ、大変なプレッシャーの中で歌い切り[336]、翌日の新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された[337]。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞[338]。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる[3][35][40][74][169][176][201][292][293][339][340][341][342][343]。当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった[344]。, 1982年9月22日 - 9月24日の3日間[345]、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)[340][345]。当時の香港は教科書問題で揺れ[345][346]、同時期コンサートを予定していたさだまさしと三原順子は中止を余儀なくされたが[335]、西城だけは特別扱い[335]。「僕は広島で生まれ、原爆ドームを見ながら育った。平和を思う気持ちは人一倍です。僕は平和を求める歌手として香港に来ました。歌に国境はない。あってはいけない」という西城のコメントが香港の新聞に大きく掲載された[345]。香港メディアも「歌と政治は切り離すべき」という論調を載せ、平和の使者としての西城を歓迎した[335][345]。, 日本のファンも熱狂的だが、香港の人たちの西城の愛し方は尋常ではなく[335]、コンサートが開催される半年も前から書店には西城の特集を組んだ芸能誌『好時代』がうず高く積まれ、『愛と誠』が上映され、それまでの西城のコンサートの模様を再編集し、ゴールデンタイムに流すハシャギようで、香港の街はヒデキ一色[335]。コンサートで客席に人指し指を向けようものなら、それまで踊り狂っていた子がワーッと泣き出しそれも男の子たちで、西城も「はじめは信じられない世界を見ているようだった」と話した[335]。アジアでは圧倒的に男性客が多かった[18]。香港で西城がダントツ人気を得た理由を香港観光協会は「香港の人間はメンタリティーの部分で、欧米人よりも日本人によく似ています。ジャズよりも当然、日本のポピュラーソングの方がなじみやすいし、リズムとかイントネーションもこっちにマッチしています。香港のショービジネスはアメリカ型というか、下積みから叩き上げていく、いわば本格志向なんです。逆にいうとアイドルの存在が香港にはないんですね。西城はジェネラルだし新鮮さがある。おまけに声量はあるし、歌がうまい。歌プラスショーとでもいうか、仕掛けのあるステージも香港の若い人たちを熱狂させるに充分でした」などと解説した[335]。アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった[59][344][347][348]。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった[344]。アニタは「日本で西城秀樹さんと共演したことが生涯最高の思い出」と話していた[349][注 21]。ジャッキー・チェンやサミュエル・ホイ、ジョイ・ウォンなど、早くから西城のステージを観に訪れた[336][338][340]。ジャッキーは西城の追っかけのように客席の一番前で三脚まで置いて写真をバチバチ撮り、ステージの上からだとはっきり見えないので、現地のマスコミだと思っていたら、コンサートの終了後に控室に挨拶に来た[334]。ジャッキーはもう香港でも大スターで、西城も『酔拳』とか観ていたから驚き、すぐに食事に誘われ、ジャッキーはどんどん大スターになっていったが、以降もコンサートの時には必ず来てくれた[334]。彼らとは商売抜きで音楽だけで繋がっている関係[18]。彼らが来日した時は、自宅に招待したりし酒を酌み交わした[18][334]。それはアマチュア時代に年上のバンド仲間と純粋に音楽のことだけで付き合っていた頃の記憶と重なった[18]。ジャッキーとは映画での共演は無かったが、1987年8月1日に琵琶湖であった「第5回びわ湖水の祭典ASIA POPS'87」で最後のアンコールでジャッキーが飛び入りで入り「ギャランドゥ」などを一緒に歌った[334]。香港での成功でアジア各国のどこでもコンサートが開けるようになった[338]。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイ王国のテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している[350]。西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している[18]。, 1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年、シチズンのCMで、海外(アジア各国)CMに初出演[351]。CMソングは「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)[351]。香港の当時のOLの平均月収は約6万円だったため、気軽にコンサートを楽しむというレベルではなくファンの見る目も厳しかった[351]。この日のコンサートの模様は、ビージーズでもロッド・スチュワートでもやらなかった前例のないTV完全中継が行われた[352]。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で鑑賞に訪れるので[335]、負担も大きいと考え、1980年代後半は香港を中心にアジアでの活動を増やした[59][335]。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ[333][353]。1986年に香港でも発売したカバー・アルバム『Strangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで前代未聞の47週トップを独走した[354]。香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された[351]。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった[140]。また現地の歌手を活かすため、ステージや番組の演出にも関わり、日本と同様、香港のエンターテインメントの制作にも革命を起こした[334]。, 1987年3月5日 - 3月8日、中国本土で初のコンサートを首都北京・首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催[20][342][355][356]。中国人民対外友好協会の二年越しのラブコールに応える形で行われ[356]、廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された[59][355]。香港の流行は中国にも伝わった[334]。廣州は香港から120kmしか離れておらず、香港での知名度が高い西城は、廣州でも大スターで、ホテルを一歩出るとあっという間に人垣ができた[20][356]。当時の中国の労働者の平均月収は約120元(約5000円)で、チケットは40元だったが飛ぶように売れた[356]。コンサートは5000人収容の中山記念堂で2回行われたが、収容しきれず、リハーサルを公開すると3000人集まった[356]。廣州に初めてレーザー光線を運び込み[356]、待ち望んだヒデキの肉声に、感情をあまり表面に出さないと言われた人たちが、手拍子を打ち、立ち上がり、踊り出した[356]。香港でも大ヒットした「年青人(ヤングマン)」では、会場中の人が「Y.M.C.A.」の大合唱。ヒデキが「再見!」とステージから去ると「安歌(アンコール)!」の声が響き渡った[356]。西城は「8年前、初めて香港でコンサートをやって以来、ボクはずっとアジアを見つめていた。フィリピン、シンガポールと段階を経て、やっと中国にたどりついた。これはボクの8年間の夢だったんです」と話した[356]。3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)[340]。撮影の3か月間、ジャッキー・チェン、レスリー・チャン、ジョイ・ウォンなどと友好を深める。, 1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル・韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う[20]。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間であった[20][176][340][357][358][注 22]。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された[59][180]。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジル・サンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンターテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる[176]。, 1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年、バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。, 1996年5月28日、『アジア音楽祭イン福岡』(TXN九州主催)出演と蓮舫とともに司会を務める[359]。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放のゴールデンタイムで生中継されるのは初めてといわれた[359]。同年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。, 1997年10月開校した上海新偶像芸術学校(シャンハイ・ニューアイドル・アート・スクール)名誉教授[360]。, 1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産の万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する[20][74][248]。アジア・ツアーの一環として広州市・珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment」北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。中国でも西城の知名度は高いといわれる[339]。, 1999年9月、日本からペルー共和国への移民100周年記念年としてペルーリマで開催されたNHK『NHKのど自慢』に八代亜紀と共にゲスト出演[361]。, 2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された[340][362][363]。9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に松田聖子と共に招待され、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.

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